こんかいご紹介するのは、前回の記事で紹介した文化人が住んだ洋館とは趣が異なる、上海的な特徴を色濃く残した建築。
場所は豫園周辺エリア。豫園は上海屈指の観光スポットです。
ただ、観光客は豫園庭園や隣接する茶館、アツアツの肉汁がおいしいショウロンポーを食べるのが定番コースで、その周囲に広がるワンダーランドへ足を踏み入れることは少ないのではないでしょうか。
この辺りは日本でいう長屋のような、古い集合住宅がひしめきあうように建っています。これらの建築物の建築年は清朝時代までさかのぼるものもあるのだとか。
元々この辺りは城壁に囲まれた上海の旧市内エリア。この城壁は倭寇の襲撃を防ぐために築かれ、その威力は絶大だったそうです。
その後、外国人は租界エリアに住み、城壁内には中国人が住むという形になりました。
城壁は現在の中華路と人民路です。中華路と人民路で囲まれたエリアが上海の旧市内です。
城壁は今でも一部残されており、見ることができます。
↑大境閣
所在地:上海市黄浦区大境路259号
上海の旧市内エリアでは、開発が進む上海の街の中で、上海人の原風景を感じられる貴重な場所でしたが、再開発の波は上海旧市内エリアにも容赦なく押し寄せており、
今回ご紹介する孔家弄(kǒngjiā nòng )も
2018年に再開発計画が決まりました。
既に多くの住民が立ち退きに同意しており、現在続々と住民立ち退き・建物封鎖措置が進行中です。今後の見込みとしては、2019年内にエリア全体が立ち入り禁止となり、取り壊しが開始。エリア内の建物は基本的に取り壊される一方、歴史的価値がある建物は保存される予定だそうです。
今いる住民、今ある風景はもうなくなる・・・今、私は旧市内エリアを「超重点ほじくりエリア」と称し、時間があれば巡る毎日です。
孔家弄基礎知識
場所
孔家弄は、上海の旧市内エリアの中央部、西寄りに位置しています。
地下鉄ですと10号線「老西門」駅6番出口徒歩5分。孔家弄という道路周辺の一帯です。
由来
孔家弄の由来は、孔家弄の一角に「孔潤徳堂」の石碑があったことから、とされます。
↑「孔潤徳堂」界石(界石の解説は下にあります♪)
「孔潤徳堂」は「孔家の潤徳堂」という意味だそうです。「堂」とは中国の伝統建築で「庁堂」を指し、来客を迎えたり、宴会を催したり、土地の神様への儀礼を執り行う重要な建物。その為、「庁堂」がある家の主人はここに「〇〇堂」と書かれた立派な字の額を飾り、家風を象徴する場として趣向を凝らしていたそうです。
その名残から孔家弄の住民は孔の姓を持つ人が多いそうです。中国では「孔」の姓をもつ人は孔子の子孫という考えがあります。孔家弄の住民は孔子の何代目の子孫なのでしょうか。
孔家弄の様子
では孔家弄へ入ります。写真は2019年5月に訪問のものです。
再開発計画エリアですので、こうしてコンクリートブロックで封鎖された建物が目立ちます。かつてはここに住民たちの生き生きとした生活があったと思うと寂しい気持ちになります。もっと早く来ていればと思います。
1階に商店があるこの建物も、2階は板でふさがれており、既に住民が退去済みである様子がうかがえます。
こうした街並みを歩いていると、いつまでも残ってほしいという気持ちと、実際住むとなると、やはり厳しい住宅環境(居住面積が狭い、トイレがない、キッチン共同や戸外設置、火災リスクなど)にやむを得ない・・・と感じたり。
愛着があってずっとここに住みたいと思う人には修繕して住めるようにする制度があってもいいと思うものの、建物単位で修繕を計画しても、住民全員の意見をまとめることも難しそう。結局こうして再開発計画ができて住民全員立ち退き、という方式にならざるを得ないのかな・・・と考えたりもします。
孔家弄のシンボル的存在・ゾウのレリーフ石庫門
旧建築愛好家の中で孔家弄というと
このゾウのレリーフ。
立派な黒い石庫門の上にアーチのきいた屋根。その屋根の下に佇むゾウ。立体的に彫られており、肉感たっぷり。ゾウの両方にたなびくのは、天女が乗るおめでたい雲・祥云。写真では見えづらいものの、ゾウの背にはこれまたおめでたい万年竹。ゾウの下には「志君楽安」という縁起が良い意味の4文字が彫られています。
おめでたい尽くしの彫刻がお出迎えする住居。建てた人の幸福を祈る気持ちが伝わってきますね・・・。
石庫門の全体像。既に住民は退去したのか、門は鎖で閉ざされています。そしてこのエリアの再開発計画を惜しむ人が書いたのか「再见老西门(さよなら老西門)」の文字が。再開発でこのレリーフはどうなるのでしょう・・・。
場所:孔家弄35号
上海裏社会のボスの7番目の奥様の家!?
ちょっと入り組んだ場所にあるこのお宅。
「燦廬」の文字が見えます。
噂ではこのお宅は上海裏社会のボス・杜月笙の7番目の妻の住まいだったとか。
↑杜月笙
大耳の杜と恐れられ、蒋介石の汚れ役を引き受けた上海裏社会のボス・杜月笙。公式の記録では杜月笙の妻は5人いたとされるものの、一部資料には7番目の妻が登場したこともあったそう。7番目の妻は青島の材木会社社長の友人で、その美しさに杜月笙は見た途端に心が動くほどだったとか。
また別の説では、このお宅は金物店の主・邹灿(燦)海の家であるという説もあるそうです。諸説あって一体だれが本当の主なのか不明というお宅です。
場所:孔家弄45号
民国十大才女が生まれた場所
民国十大才女の一人と言われる、女性画家・作家の陆小曼(1903-1965)は孔家弄31弄で生まれたと言われています。
↑陆小曼
孔家弄31弄2号は現在、このように「承徳里」という旧時の集合住宅です。陆小曼の生まれは1903年、こちらの「承徳里」は、上の写真でも分かるように「1935」、つまり1935年築と書かれています。
陆小曼がこの「承徳里」内の家で生まれた、とするには年代が合いません。
陆小曼の祖父・陆荣昌は清の時代に太平天国の乱の戦火を避けるために家族で上海に避難。陆小曼の父・陆子福(又は陆定)は清時代後期に科挙を受験。早稲田大学へ留学し、日本で孫文の同盟会に参加、中国に帰国後は財政部司長、参事を務めています。
このことから、陆小曼の実家は名門、家庭環境もよく裕福なはずであり、住まいは「承徳里」のような普通の集合住宅でなく、一棟建ての邸宅に住むはずと推測できます。
孔家弄31弄2号は陆小曼の生誕地であるものの、「承徳里」ではなく、おそらく「承徳里」ができる前にあった陆小曼の邸宅だったと今は考えられています。ここで生まれた陆小曼は、6歳で幼稚園入園、7歳の時に母と共に北京の父の下へ行き、英語を学び、政府機関で通訳の仕事に就きました。
その後、結婚するも作家との恋に落ち、離婚。当時大きな話題となりました。作家と再婚を果たすも、数年後に飛行機事故で亡くなり未亡人になりました。その悲しみからいくつかの文学作品も残しています。陆小曼は1965年に上海で亡くなりました。
他にも
文革時代の名残か「毛主席万歳」の字が見られるお宅。
場所:孔家弄73号
こちらも文革時代の名残・共産党の赤い星。
星のマーク部分の金属棒は元はエアコン室外機置場と思われます。住民立ち退きで「発見」されることになったのでしょうか。
由来の石碑を探すも・・・
孔家弄の名前の由来になった「孔潤徳堂」の石碑。ここでいう石碑とは土地の境界を示す「界石」で、建物や土地の四隅にあるものです。「孔潤徳堂」の界石であれば、「孔潤徳堂界」と彫られているはずと、付近を捜索してみました。
陆小曼が生まれた孔家弄31弄「承徳里」入り口にある界石。1935年に「承徳里」が建てられた頃界石は現役だったんですね。界石の横には「黄姓」と書いてあります。黄さんが住んでいたのかな・・・。
結局「孔潤徳堂」の石碑は発見できませんでした。由来の部分に「孔潤徳堂」の界石写真を挙げています。これを次回以降の訪問で見つけたいです。
人が立ち退き、封鎖された建物
それにしても、ここは歩けば歩くほど突きつけられる再開発の現実。建物入口はブロック塀を積み上げて封がされています。今後このような建物がどんどん増えていくことが予想されます。元々古い建物ですが、住む人がいなくなるとますます傷みが目立ちます。
封鎖された建物が集まると、さながらゴーストタウンのような趣が出てきます。
こちらは「1926」の字が残る石庫門。1926年築なのでしょう。西洋風の装飾です。この立派な装飾の建物も再開発で壊されてしまうのでしょうか・・・。
孔家弄にまつわる噂は他にもさまざまあるそうですが、史料が不足していて更なる研究が待たれる状況。そんな中での再開発計画。深く調査したいときには史料によるしかなくなっているのでしょう。残念です。
残された時間が少ない孔家弄。また訪問を重ねたいです。
【参考サイト】